その129 身体技術上達試論④

「居つき」からの脱却

 私は運動音痴であり、また野球のことは全く不案内なのではありますが、再びピッチャーの投球に例えて「速さ」と「居つき」との関連で述べさせていただきます。

 もしも、ピッチャーの投げた球の制御・誘導が可能であるならば、どうでしょう。 球がピッチャーの手を離れ、空中滑走している間もピッチャーのコントロール下あれば、ということです。
 投げた球が制御・誘導が不可能な弾丸やロケットでなく、誘導装置を持つミサイルの状態となればということを想像してみてください。

 バッターがバットを球をめがけて打ち振るってきても、その寸前に躱(かわ)すことができます。いったん振り出されたバットは躱された球について行くことができません。ですから、どんな精緻なスイングでも、すべて空振りに打ち取ることが可能なのです。
 この投法が実現可能であれば、ピッチャーにとっては夢のような話です。

 反対にバッターの方ですが、バッターのスイングが制御・誘導が可能であれば、どんな速い球でも捉えることが出来ます。
 バントです。
 バントには「溜め」も「支点」も「力点」も必要ありません。球にバットを持っていくだけです。
 しかし既存のバント打法では強く弾き返すことが出来ません。バント的な打法でホームランを打つことができれば、と思うとこれまた夢のような話ですね。

 武蔵が生きていたならば、「惣躰棍棒となりて…」などと、上達論を打ち立てるのではないかと想像逞しゅうしております。
 まさに「緩々と見えて、間の抜けざる拍子」です。そこには3割、4割などと細かいことは言わず、10割打者という境地がある、などと言ったら野球関係者に叱られるかもしれませんが。

 武蔵が『五輪書』で言う「太刀の道を覚へて、惣躰自由になり、心のきゝ出でて道の拍子をしり、おのれと太刀も手さへて、身も足も心の儘にほどけたる時に随い …中略… 緩々と思ひ、此法をおこふ事」([水之巻])といった境地は、爆発と居つきを繰り返す戦いとは一線を画すものであります。

 この状態を思い描くとき、YouTube動画などで見るかぎりですが、太極拳の緩やかに円を描く動作が連想されます。
 また『五輪書』には、他にも「上手のする事は緩々と見えて、間のぬけざる所也」([風之巻 他の兵法にはやきを用ゐる事])や「足づかいは、ことによりて大小・遅速ありとも、常にあゆむがごとし。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて其三つ、きらふ足也。此道の大事にいはく、陰陽の足といふ、其肝心也。陰陽の足とは、片足ばかり動かさぬもの也」([風之巻 足づかひの事])などと太極拳様の動きとおぼしい表現がなされております。

 太極拳の動きを見ていますと、はたして武術として用に立つのか、という疑問をもちながらも、身体のどこにも凝(しこ)りがない緩やかな円運動に私が目をこらすのは、動作がいつでもどこでも制御・誘導が可能である点です。
 これは剣道の上達論につながるのではと思い至りました。

 日々このようなことを考えながら巣籠もり生活を送っていると、自ずと竹刀を持つ時間も長くなり、身体技術上達論の考察はとどまるところを知りません。
 次回は太極拳に通じる剣道の稽古法を紹介いたします。
つづく
頓真

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